出雲大社周辺の散策と写真                    

出雲大社周辺を一回りしたときの記録です。
先ず、大社周辺にある各社の大雑把な配置図と祭神のリストを挙げておきます。

 
社の名称と祭神(出雲大社のホームページなどを参考http://www.izumooyashiro.or.jp/)
 
A 本殿 大国主神、
     御客座五神(天之常立神、宇麻志阿斯訶備比古遅神、神産巣立日神、
           高御産巣立日神、天之御中主神)
B 御向社(みむかいのやしろ)須勢理比売命(嫡后)
C 天前社(あまさきのやしろ)蚶貝比売命、蛤貝比売命(大国主命を治療)
D 筑紫社(つくしのやしろ) 多紀理比売命(妻、宗像大社祭神、親は天照大神)
E 門神社(もんじんのやしろ)東-宇治神、西-久多美神、門番役。
                               以上 瑞垣内

F 八足門(やつあしもん) 一般の礼拝所。通常はここから中には入れない。
G 観察楼                 回廊の一部、瑞垣へ連なる。。
H 素鵞社(そがのやしろ) 素戔鳴尊(天照大御神の弟神、大国主大神の親神)
I 彰古館(しゅうこかん)  資料など
J 氏社(うじのやしろ)  天穂日命(天照大神の第二子、出雲国造家始祖)
K  氏社(うじのやしろ)  宮向宿祢(天穂日命十七世子孫)
L  十九社(じゅうくしゃ) 八百萬神、神在祭の間、全国各地の神々の宿所
M  釜社(かまのやしろ)  宇迦之魂神(別名・保食神、食物の神)
 
N  拝殿 昭和34年5月竣工
O  庁舎(ちょうのや)昭和38年5月竣工
P  神祐殿 昭和56年竣工、二階に宝物殿
                               以上 荒垣内
Q  神楽殿 出雲大社教本殿、昭和56年に竣工.
    巨大注連縄(しめなわ)は長さ13メートル、重さ5トン。
 



 上記以外にも荒垣内外に多くの社がありますが、割愛。
全体は3重の「垣」によって囲まれていて、瑞垣内に入れるのは、特別な行事の時だけらしい。
瑞垣の周囲は遊歩道のようになっていて回ることが出来ます。


参道・・・歩いて10分弱。松並木で、両側に池や芝生の庭が広がっています。




拝殿



八足門(一般の参拝所)、観察楼。屋根越しに本殿も。朝早かったのでまだ参拝者はほとんどいません。



瑞垣の向かって右側(東側)方向から。外寄りから、天前社、御向社、本殿。
御向社に祭られているのは、正妻で素戔嗚尊の娘須勢理毘売命。蛇やムカデ、蜂、火の受難から大国主を救った。
天前社に祭られている、蚶貝比売命(きさがいひめのみこと)と蛤貝比売命(うむがいひめのみこと)は、古事記に出てくる神で、大国主命が若い頃兄たちに虐められ、猪を捕るように言われて待っていた所へ「火をもちて猪に似たる大石を焼きて転ばし落」されて、そのために死んでしまったとき、生き返らせてくれた神。



瑞垣の向かって左側(西側)。十九社、氏社(天穂日命とその子孫を祭る)、彰古館など。
天照大神から、葦原中国を征服するようにと言われて使わされた天穂日命だったが、「大国主神に媚び付きて」3年たっても復命しなかった。
そして、大国主神に仕え、出雲国造の始祖となったとか。



本殿(台座のように見えるのが玉垣、拡大できます)。右側は、素鵞社。素戔嗚尊を祭るにしては粗末な印象ですね。



神楽殿、巨大な注連縄、どうやって編むんでしょうかねえ。
左側写真は拡大できます。白い看板に書かれているのは、この写真でははっきり分かりませんが、皇后陛下の御歌です(下段参照)。





出雲大社は3重の垣によって囲まれて、通常は2重めの瑞垣から中には入れないとのこと。
その中に祭られているのは、大国主にとって身内とも言える神々ばかりです。
この中に、親しい神たちと共にいつまでも閉じこもっていてくれ、ということなんでしょうか。



平成15年、皇后美智子様が出雲大社に参拝されて詠まれた歌が、大きく掲げられていました。

> 出雲大社に詣でて
>
>  国譲(ゆづ)り祀(まつ)られましし大神の奇しき御業(みわざ)を偲びて止まず

国譲りの対象は天皇家の祖先ですから、天皇家の側からは歌いにくい題材でしょうが、
大国主神の事績を上二句に簡潔に表現して「奇しき御業」と称揚し、
それを2千年以上後の現代から遙かに偲ぶ、と、
非常に大きな題材を1首の中にまとめた苦心作だと思います。
「奇しき」には「くすしき」と「くしき」の2通りの読みがありますが、この場合は「くしき」でしょうか。
意味は「神秘的だ、不可思議だ」といった所で、神の形容によく使われるようです。
明治維新同様、比較的平和裡に行われた政権の委譲と前代の支配者の引退を、
大国主と言えば思い出される各種の物語を含めて、「奇しき御業」と表して畏敬の念を込めるなど、
上手いものだと思います。
言われてみれば当たり前のような言葉ですが、そうは思いつかないのではないでしょうか。



皇后陛下の御歌には傑作が多いと思います。歌集「瀬音」から2首引用。

第二次大戦中、日本は膨大な数の輸送船を沈められ、多くの船員が民間人でありながら海に散った訳ですが、その慰霊碑が戦後20年以上経って初めて立てられたとき、雨の中除幕式で詠まれた歌、

> 観音崎戦没船員の碑除幕式激しき雨の中にとり行われぬ
>
>  かく濡れて遺族らと祈る更にさらにひたぬれて君ら逝き給ひしか

海中でまさに「ひたぬれて」船員達は亡くなった訳で、生々しい言葉です。両殿下と共に雨にに打たれながら、遺族の心は20年以上前に引き戻された事でしょう。
そして「君ら逝き給ひしか」と死者の無念に思いやり語りかけるこの歌は、儀礼の歌の範疇をはるかに超えてます。
万葉集の挽歌の世界ですね。

同じ年(昭和46年)、まだ完全破壊される前の、顔だけを破壊されたバーミアンの石仏を詠んだ歌、

> アフガニスタンの旅
>
>  バ−ミアンの月ほのあかく石仏は御貌(みかほ)削がれて立ち給ひけり

これも、みかおそがれて、という激しい表現があるものの、異教徒による自らへの傷害行為をも許し、静かに瞑想を続ける仏の心と姿が、「立ち給ひけり」という言葉で十分に表されていると思います。
また、仏が虎に身を捧げた話とか、
芭蕉の、

  若葉して御めの雫ぬぐはばや 

での鑑真の瞑想にふける姿も連想されます。



で、出雲大社の話に戻って、かつてこの大社は、48メートルの高さがあったらしい。
それを支えた巨大な柱らしいものが発掘されています(下左の写真)。
直径1.4mの巨大な杉の木を三本まとめて鉄の輪で縛って一本の柱とし、
それを九本用意して、社を支えたとか。
その九本の柱の上で、社を組み立てたのでしょうか。想像を超えています。
しかし、古事記に大国主神の言葉として、
「底つ岩根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて治め賜はば、僕は・・・隠りて侍ひなむ」
とあるように、まさに大きな社を建ててその中に隠れた、ということは多分事実なんでしょうね。
 
右は、大社の近くにある出雲の阿国の墓。



日御碕(ひのみさき)、島根半島西部。右側写真は、経島(ふみしま)、神域となっていて鳥居と祠があります。拡大できます。



日御碕神社・・・祭神は素戔嗚尊(右側)と天照大神(左側)。




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