このページは、映画「レマゲン鉄橋」と実際の戦い、への補足ページです。      HOME
先にそちらをお読み下さい。    2011/5/30

レマゲン関連本2冊の紹介

A.Hero of the Rhine-The Karl Timmermann story  (Ken Hechler)
   「ライン川の英雄-カールティンマーマン物語」
B.Remagen 1945-Endgame against the Third Rhich  (Steven J.Zaloga)

   「レマゲン1945-第3帝国への最終戦」

どちらも翻訳されていないかと思います。アマゾン経由で、アメリカの中古店から購入。便利な世の中です。


A.は「レイマーゲン鉄橋」を書いたケンヘクラーが2004年に出版したティンマーマンのメモリアル本。家族の手紙や写真を豊富に使い、それを元に、祖父母の代からティンマーマンの死までをまとめたもの。レマゲン奪取時のことはそれほど詳しくはない。レマゲン橋進入時のいさかいなど、若干新しい記述もあるようだが、上記の本そのままの記述が多いように見える(まだ一部しか読んでないので)。父親の脱走騒ぎや、故郷の町との軋轢など詳しく書かれている。


1.ティンマーマンの簡単な生涯と軍歴

  1922/6/19   フランクフルトで生まれる
  1923/12/29  ブレーメンを出港、NYに向かう。
  1924/1/9    NY着、ネブラスカ州ウエストポイントに移動
  1940         ガーディアンエンジェルズ高校を卒業
  1940/6/6    入隊 同年9/1、第17歩兵師団、D中隊に配属、その後幾つかの部隊に転属
  1942/4/1    軍曹に昇進
  1942/11/10  フォートベニングの士官候補生学校へ入学
  1943/2/16   少尉に昇進、カンサスの第9装甲師団の小隊長になる
  1943/5/25   同郷のラベラと結婚(異なる宗派間での結婚で、教会は挙式を拒否)
     同年 カリフォルニアや、キャンプポークで訓練を受ける。
  1944/8/20   欧州に向けてNYを出港、クイーンメリー号に乗船
     ジグザグ航行の後、同月27日イギリス着、第27装甲歩兵大隊結成、第9軍所属
  1944/10/1   フランス、ユタビーチ上陸
  1944/10/26  第1軍に転属後、ドイツのプルムで、最初の戦闘を体験。
  1944/12/16  コマンド部隊Bがベルギーのサンビット駐屯中に、バルジの戦いに遭遇
      同月22日右腕を負傷。第9装甲師団はちりぢりになって、ドイツ側に幽霊師団と呼ばれる。
  1945/2月下旬  第27装甲歩兵大隊と第14戦車大隊に、
      ロエール川を渡って、40マイル離れたライン西岸を攻撃せよとの指示。
      ドイツ側がロエール川のダムを決壊させる中、ラインへ進撃。
      この進撃は後にブラッドレーにプロフェッショナルな仕事だと賞賛される。
      途中A中隊隊長のスイッシャーが負傷してクリーナーに交代。
  1945/2/28   妻のラベラが女児を出産
  1945/3/6   一連の夜間戦闘の後、シュタットメッケンハイムに到着
      (映画はこの辺りから開始、兵士達が不満を漏らすのも上記の戦闘が続いていたため)
      クリーナー大尉が負傷して、ティンマーマンがA中隊隊長になる。
  1945/3/7  レマゲン奪取
  1945/4月   勲章受章、また中尉に昇進。
  1945/5/7  ドイツ降伏、欧州戦線で戦争終結
  1945/5/20 軍政司令部付き中隊に転属、7月A中隊に復帰 
  1945/9/19 カレーにて乗船、フランスを出航。
  1945/10/12 NY着。同月軍務を離れる。
  
   約5年半の軍務、その内欧州大陸に滞在は約1年、戦争中では最大7ヶ月。 
   その後、セールスマンや技師など職を転々とする。

  1947/12月  軍曹として軍務に復帰。
  1948/12月  中尉に昇進
  1949/1月   第2装甲師団、第66大隊に所属、同月下旬日本に到着。
         日本では仙台や札幌で勤務。ディーン将軍の第7師団に所属。
  1949/7月   妻と子供を北海道に呼ぶ。日本では家や待遇に満足していた模様。
         マッカーサーやウオーカー将軍のパーティに呼ばれたり、オペラ見物もあった。
  1950/6/25 朝鮮戦争勃発。
  1950/8/20 所属する偵察中隊が朝鮮へ出発、
         釜山の橋頭堡で、1週間の間に数回の戦闘を行う。
  1950/9/4  日本のキャンプを再度出発、仁川上陸作戦(15日)に参加。 
  1950/9/25 ソウルへ進撃
  1950/10/12 肺ガンの自覚症状が現れ、その後アメリカへ帰還。デンバーで入院する。
  1951/10/21 X線照射などの各種治療を受けたが回復せず、亡くなる。

   約3年の軍務、その内戦地にいたのは、最大約3ヶ月(休暇も含む)。

   戦地にいたのは合わせて僅か10ヶ月。だがその間、バルジの戦い、レマゲン、仁川上陸と、
   20世紀中葉の歴史的な戦いに3度も参加している。釜山橋頭堡も入れると4度。
   しかも負け戦は無い。一つでも参加してれば、後々まで自慢の種になるような戦いばかり。
   レマゲンでは、前日に中隊長となって渡河を指揮してるし。
   兵士としては、えらく戦運がよかったのではないだろうか。
   その代わり若くして亡くなってしまったが。
   また、故郷の町との関係については厳しい状況だったらしい。全く功績を無視されたとか。



B.はレマゲンの軍事本。これも写真が豊富で、一部カラーの図版も入っている。
人物紹介や兵器、戦況の説明など相当詳しい。96p、2006出版。
ジェット爆撃機Ar234やキングタイガーが攻撃中の絵なんかもあって、まあ楽しいというか。
ただ、ディーバース少佐については上の本同様ほとんど触れていない。

1.レマゲン橋奪取後のドイツ側から橋への攻撃

  a.陸軍
   1) 砲兵部隊による砲撃・・第3軍管区中心、105mm砲50門、150mm砲50門、210mm砲12門
       3月8日、9日の二日間で24弾が橋に命中。
       10日、橋の上の油送車に命中、一時閉鎖され、ガソリンや弾薬はフェリー輸送となる。
       11日以降、レマゲンの高地に潜入した観測係が発見されるなどで、効力を無くす。

   2) 54センチ砲装備のカール自走砲による攻撃
       3月16日14発発射されたが命中しなかった。レマゲンの街にはかなりの損害を与えた。

   3) 浮遊機雷による攻撃
       米軍が事前にバリアを張っていて効果無し。

   4) フロッグメンによる攻撃
       3月11日、海軍の協力のもとウイーンから派遣されたメンバー11人のスイマーが行った。
       17日に攻撃、既に橋は崩壊していたので、仮設橋を狙ったが、
       米軍側が機密としていた強力な投光器をもつ戦車部隊(第738大隊)に発見され、
       手榴弾を投げ込まれるなどで失敗に終わり、4人が捕虜、他は逃亡した。



  b.空軍
   1) 3月8日午後、3機のStukaと1機のFw190で攻撃、全機撃墜される。
     ゲーリンクの命令で、30機のMe262、40機のAr234のジェット機による攻撃隊が編成。
     同9日早く、Bf109とFw190に臨時に加わったMe410による攻撃。
     同日、Me262とAr234による数度の攻撃。各1機ずつ失われる。
     同10日、47回の攻撃、米側によると28機撃墜。
     同12日、91機による攻撃で、米側によれば26機撃墜。
     同13日、90回の爆撃中、Ar234による爆撃が19回。米側発表では26機撃墜。
     同日、Me262を5機失う。
     また同日までに、橋周辺には、計672の対空兵器が配置された。大戦中最も高密度の配置。
     米側は、17日までに400回の攻撃があり、140機が撃墜され、59機が破壊されたとみた。
     ドイツ側では、ジェット機は18機が撃墜され、それ以上が着陸時に破壊され、3分の1が健在だとした。

     ゲーリンクはボランティアを募って、橋への体当たり攻撃を希望し、また応じる者はいたが、
     士官が、安全装置によってその状態では爆弾は破裂しないとして反対したという。

   2) V2による攻撃
     3月11日〜17日に11発がオランダから発射されたが、ヒットしなかった。

                                                       以上11/02/07
 
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